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** 神社仏閣めぐり2017(14) **

「和尚の目は鋭過ぎる。もっと馬鹿にならねばいかん、印度でも行って来るがよい」鉄舟居士は釈宗演老師に案山子の絵とともにそう言葉を送ったという、そんな逸話も興味深く春ひがん号を読ませていただいた

春だねぇ

さてさて

ホーホケキョ...

やけに立派な鳴き声だなぁと、今年の初音は南知多にて、

そんなことを思ったこの日は、、

尾張高野山宗総本山

尾張三十三観音霊場第七番札所

そもそも唐から帰国の三年後の大同三年(808年)に立ち寄られていたようだ、時はくだり高野山に金剛峰寺を創建の後(弘仁6年/815年)、再び諸国遍歴を決意された際に、再び知多半島に寄られ百日間の護摩修行をされたとある、そんな弘法大師空海所縁の地でもあるんだねぇ時に天長八年(831年)四月、大陸では禅が大成していった時代と重なる

百丈懐海(749年−814年)

空海(774/宝亀5年−835.4.22/承和2年3月21日)

黄檗希運(?−850年)

臨済義玄(?−867年)

経蔵裏手の大師ヶ嶽山頂に立つ弘法大師像からは対岸の桑名までも見渡せそうだった、尾張徳川家祈願所ともなって以降は寺紋は三つ葉葵のようで

鶴林山大御堂寺(通称間野大坊)

真言宗豊山派

尾張三十三観音霊場第八番札所

「我に小太刀の一本でもあればむざむざ討たれはせん」

源頼朝公の父源義朝公終焉の地にあるその御廟には今も木太刀が山のように、、

びっくりしたのは客殿で、秀吉公晩年の居城「伏見桃山城」の一部を移築したものだとか、寛永年間のことだとあった、つまりは上野の寛永寺創建時と前後するくらいの頃か

ただ、、寛永年間(1624年〜1645年)であればすでに廃城になった後だねぇ伏見城天守は今は二条城へ移築されているのだとか(ほ〜)

お地蔵様(頼朝公幼少の頃よりの念持仏を奉安)の御朱印もあるようでまた御縁日にでも

鶯の身を逆(さかさま)にはつねかな / 其角

メジロのその逆さまに花の蜜を吸う姿を見間違えたのでは?という説も

去年の初音は建長寺回春院だったか、初音らしくまだたどたどしいさえずりだったように思う